白虎隊
白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃)のみであったとされる。これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた。ただ、東北諸藩のほとんどは軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入しており、白虎隊だけが旧式装備を与えられていたわけではない。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。少年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。だがここから眺めた戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認し総勢20名が自刃。一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡した。
実際に城は落ちておらず、途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって、西本丸を守った。籠城戦は1ヶ月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
その後、飯沼貞吉は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わった。ちなみに、日清戦争時に電信技師としてソウルに渡った際にピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。同じ「士中二番隊」の隊士であった、酒井峰冶(さかいみねじ 1851年 - 1932年)の手記が近年発見された。酒井も生前、当時のことは家族にもほとんど話さなかったそうである。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(但し、飯沼が生き残った事に対し「武士としての最期を遂げず生き恥をさらした」として非難する向きもあり、飯盛山の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。
予備兵力であったために火力を持ちえなかった事から、戦局への影響力はさしたるものではなかった。隊が終始一貫して、組織的戦闘行動を取れていたことは特筆に価する。
なお、飯沼貞吉の生還により明らかとなった19名の落城誤認による自刃ばかりが「白虎隊」として何度も映像化されてきた経緯があるためか、実際には全体の8割以上の290名の若者が生き延びた(これは新しい時代に向けて、追い腹を切る事を禁じられたものとされる)ことに対する一般の認知度は極めて低いものとなっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
武家の男子によって構成された部隊だったことは知りませんでした。
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